Google+ 今書ける事: 善と悪、大義

12/05/2014

善と悪、大義


「善と悪」と聞くと、良い事と悪い事って思いますよね。
けど掘り下げて考えてみたら時代によっては善とは何か悪とは何かという事は変化しているのね。

「悪」ってのは遠い昔には単に悪い事という意味ではない時代がありました。
太刀打ちできない程に強いものとか、逆らえないほど強大な・・などの意味を持つ言葉だった時代もあるようです。

大義というものはしばしば悪に近いものが多いのでは?とたまに感じるのですが・・。

【大義とは・・・人間が行うべき大切な道義(人のふみ行うべき正しい道)のこと(wikipedia)。
また、重要な意義のこと。
大義名分(たいぎめいぶん)とは、儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。(wikipedia)】


大義とは、その時の権力がつくった善と悪であり法律がつくった善悪でもあり時代によって「善悪の観念」そのものが変化していきます。
時代によって「それ」は違うものになっています。
これまでの世界中の歴史をさらりと振り返ってみると、善悪の変化に関してなるほどと納得しちゃう。現代においても"それ"は変化し続けています。
人のトップが入れ替わる度にその時代の権力によって法律も変わっていくから。

法律が強く支配してしまう世の中になっているという事はとても残念な事だと気付いてほしい。
人間のさまざまな行動を縛り付けるのが法律って事ですね。人々の行動そのものを縛るという事だから。
法律を事細かに定めなればならなくなってきたという事は、根本的に間違った行動を取る人が多くなっている間違いだらけな社会になってしまっているって事なのかもしれないとも感じます。

人の人格は一日の中でどんどん変化するものです。「人格が変化」っていう表現はちょっと言い過ぎかもしれないけれどね。
それまで優しい表情をしていたはずなのに、嫌な事に遭遇すると憤慨し表情も一変しませんか?
人格が変わるって感じがするのね。

さっきまで良い事だと思っていた事でも、ある情報を手に入れる事で、今は「いや、それは良くない事だ」と感じる事ってよくある事です。
知識の浅い軽薄者であればなおさらのこと、善悪の判断は一日で何度でもい入れ替わる。
独りでいる時と集団になった時でも善悪の評価は変わるものよね。私はそうはならないつもりだけど・・。
家にいる時の考え方と世間に出かけた時でさえ考え方も人の見方も変わっちゃったりね。
それは家族同士でもそうなのではないかしらん。

善悪の判断が変わったりまたは意見が別れたりするという事は、それほどに曖昧な考え方が世の中に多く存在するからなのではないかしら。

客観的に自分をみると自分の中にも善と悪は同時に存在しているという事は言えるんです。
誰から見ても善である事と悪である事は別として、善と悪の区別は人によって違うんですよね。

その時代の模範になる人を育てる事はとても大切な事ね。
そのためにも模範になる人が育つような教育は何よりも大事だと思います。
世界的におかしな事になっている時代に入った事を思うと、各国のトップが受けてきた教育をした模範となっていた人はどういった人格だったのだろうと気になります。

さあ、そこで模範とは何ぞや?って事になってきます。
模範=お手本
その模範となるべき大人がしっかりとした知識を持っていなければ良い教育はできません。
お手本にできないってことになりますね。
だからこそ、だからね、幼少期からのさまざまな教育は大切なのだと思うのですよ。

今世界中で重要な事のひとつが、人間形成がなされる成長過程で「明白とされる善悪について」の教育だと思います。

世界中の子供たちがきちんとした教育を受けられれば、各々の国の先導者は良識ある人となり、戦争も国同士のいがみ合いは解消されるかもしれません。
犯罪も減ることでしょう。

善と悪について哲学的にどういう事かという事を本にしようと思ったら一生かけても書き終わらないかもしれませんけどね。

言葉の意味も変化していきますね。
言葉は生き物

人間を何十年かやってきたけれど、まだ人間に成りきれていない私という「人」である。
一方、犬は犬になりきっています。あっ晴である。

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